他人からの評価は当てにならんし、他人への評価はできんと思った。
私は「他の人から良い評価をもらえているか?」を気にすることが多い。
そのためにメンタルを病んでしまったこともある。
しかし、ウメハラさんの「勝負論」を読んでから「他人の評価って実はできないんじゃないか?」と思った。
科学的なエビデンスを参考としているわけじゃないけど、つらつらと思いを書いていく。
ウメハラさんは新しいゲームをやるときに半年間ほど成果がでない時期があるそうだ。
それはセオリーにそわずに、基礎固めをしているからだそう。
しかし、世間などいわゆる「他の人」は「ウメハラは終わったな」という評価になるそうだ。
ウメハラさんは基礎固めをしている最中だし、第一自身の方針に従ってやっている。
「成長」をベースとするやり方だ。
そうすると、「他の人」は何をベースとして終わっているか終わっていないかを判断しているのか?
それは本にもあったとおり「結果」だろう。
結果が出れば終わっていないし、結果が出なければ終わっている。
非常にわかりやすい。
ここまでが本から読み取った内容だ。
この考えは、当人にとってみれば結果が出てる出てないは関係ない。
なぜ、当人と「他の人」では認識の差が出てしまうのか?
私が思うに、「他の人」は結果しか見えるところがないのだと思う。
「他の人」たちもその人たちにとってみれば「当人」になるだろう。
しかし、私たちは一人ひとりを「当人」のことだと思ってみることは難しい。
その人の人生や気持ちを全て追うことができないし、理解できないからだ。
そうなると、第三者としてわかりやすい基準を使うしかない。
今回で言うと「結果」になるのだが、それは「結果」を評価しているのであって人の評価ではない。
「人」を評価する場合は必要な要素が見えず、第三者にわかりやすい「結果」は「結果」であって「人」ではない。
個人的な結論として、「人は他人を評価できていない?」となった。
厳密に言うのであれば、「人は他人を評価できない?」だ。
おそらく、こういうのに心から気付けるのが「禅」とかなのだろうと思う。
これに気付けると、仕事とかで成果が出なくても特に焦ったりしなくなる。
「仕事」では評価が出ないかもしれないが、それは人としての評価にはなんら関係しないからだ。
つまり、「仕事」という一種の枠組み、ゲームのひとつの評価としてとらえられる。
ソシャゲでSSRが出なかったからと言ってその人がダメということにはならないだろう。
自分が何をしてどう感じたか、という点だけになった。
なんか書きたいことありすぎてよくわからん記事になった。
今の時代、他の人の意見見えすぎるの困るよね。
本の感想記事じゃないんだけど、どうしようかな・・・